斎藤は耽けた。

日常で思いついた話とか、日記のようなもの。

 

ブログは基本的にネタが切れているものである。しかし確か私が生まれて初めてのブログというものを書いた時は書きたいことが沢山あったことを覚えている。それは私が人生で得た情報というものが誰かを救うと勘違いしていたからであろうと思う。だからそれは少しだけ人から評価をもらったりしたことがあったが、だがしかしそれは偽善に過ぎなかったとも思っている。現に、内容ではなく人から評価をもらったことを強く覚えているのだから、結局その行為の根底にあるのはどうしようもない自己顕示欲なのだろう。今は特にこのブログに関しては自己顕示欲というものはない。セラピーに近い。思考は脳内で行うものだがこのようにログが残る思考法は自らの様々を記録するに容易く思考の整理もしやすいからである。もちろん、これを誰かに読まれるつもりはない。だがしかし一応twitter上にいるSTのペルソナは外さぬようにしている。STではない書き物はまた別の方にやはり沢山ある。そうやってやはり沢山あるものは私の心の中に層となり澱となり積もっていきやがて美味しい伊達巻になってくれるだろうと思う。伊達巻が好きなことを闇雲にバラすのは良くないのは分かっているがこれを通して誰かが私に伊達巻を奢ってくれたら、ただ困惑するだけだろう。なので忘れて頂きたい。私は伊達巻よりも土地を奢られたいな。

 

そういえば皆さんは病気になったことはありますか。持病とかなかなか辛いですよね。心臓系だと体育が出来ないし、骨格系でも体育は出来ませんね。酷い場合ですが。呼吸器系も体育は出来ませんね。そう考えると体育という授業は選ばれた者のみが味わえる奇跡のような授業なのではないでしょうか。体育ではなく勇者学とかにした方が良いと思います。もしそうだったら私は率先して勇者学の履修をやめていたと思います。私にとって体育は地獄でしたし。そうです、私もかくいう元持病持ち。なぜかドクターストップを自ら破り体育をやっていたんです。嫌いだったくせに。不思議ですね。もしも体育が勇者学ならば私はさながら偽勇者であったでしょう。偽勇者は成敗されるもので、まあ私は結構成敗されていました。今でも身体を動かすのは嫌いではないですけどね。でも身体は相変わらず弱いのでほどほどって感じです。あとこのブログの秀逸なところが今露見しているので書きたいんですけど、このブログにはSTに用意された5つのペルソナの内3つが現状露出しているのですよ。この一記事で。凄くないですか?自画自賛は犬も食わぬ、ですね。

 

では、ここまで書いたので本編へと行こう。果たして本編とは。それはつまりセラピーにおける本編でありこれこそが私を癒してくれるのだ。

 

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昔、僕は猫を飼っていた。毛が長くてケセランパサランが命を宿したかのような猫だ。誰にも言わずに飼っていた。何年も。

彼は、もしくは彼女はとても静かな猫だった。猫というにはあまりにも自制が上手な猫で、本当に何も欲しがらなかったし黙って僕のそばにいた。

ただ僕はそれが少しだけ寂しかった。何年も一緒なのはわかるし、いつだって猫の温もりとか優しさを感じられたんだけれど、やっぱり僕は小さな子供だったから喋りたかったし一緒に遊びたかったしその猫の感情を知りたかった。

でも、猫は寡黙だった。猫じゃらしを見せてもゆっくりと瞬きを繰り返すだけで、餌も水も知らぬ間に飲み食いしてた。話しかけても特には返してくれなかった。

ただ、眠る時と寒い時だけ猫は僕の胸へと身体を預けてきた。少しだけ重たくて苦しいけれど、僕はそれがとても嬉しくてただそのままにしていた。その重さは僕にだけ向けられたもので、それはとても素直に幸福だった。嬉しかった。つまり僕は、どんなに寂しい日でも寝る時はその猫の重さのおかげで幸福だったんだ。

 

ある日、僕はひいばあちゃんの家に遊びに行くことがあった。僕はいつも通り猫を抱えて遊びに行った。抱えてと言っても、猫はいつも僕の胸の中にいるから離れるなんてことはないんだけれど。

とにかく、僕は猫と一緒にひいばあちゃん家に遊びに行った。そしてそこで初めてベッドを見つけたんだ。古いスプリングの、埃まみれのベッド。ひいばあちゃんはそれを見た僕の肩に手を置いて

「これをトランポリンにして遊ぶと楽しいのよ。」

と言った。

僕は思わずはしゃいじゃってベッドをトランポリンにしてぴょんぴょん飛び跳ねた。何度も、何度も。

舞った埃は日光に照らされてきらきらと綺麗で、スプリングはそれを讃えるように歌っていた。それにつられたのか、僕の胸の中の猫も、にゃーにゃーと嬉しそうに声を挙げた。

僕はなによりも猫が嬉しそうなことがとても嬉しくて、何度も何度も飛び跳ねた。

もっと埃は舞って、スプリングは歌って、猫はつられて歌っていた。

でも猫は途中で声が枯れてガラガラ声になっていった。そして疲れて僕の方へと体重を載っけてきた。寝る時とか寒い時よりもずっとずっと体重を載っけてきた。

僕もなんだか疲れてしまって、埃が舞う部屋の中で横になった。

「いつもより重いよ。」

と猫に言ったけれどやっぱり猫はそのまま僕に身体を預けていた。重くて重くて僕は肩で息をする、その度に猫の「ゼヒュー」という鳴き声が漏れる。

それからしばらくして、急に静かになったのを心配したひいばあちゃんが僕の様子を見にきた。

するとひいばあちゃんは青ざめた顔で急に電話を掛けて、僕はそのまま救急車で運ばれて、薬を飲まされて、それからは猫はいなくなってしまった。

ひいばあちゃんやおばあちゃんに猫をどこにやったのか聞いても首を横に振るばかりで、猫の名前以外は何も教えてくれなかった。今どこにいるのかも、これからどうなるのかも、何も教えてくれなかった。だから僕は猫の名前だけは忘れないでおこうと思う。

猫の名前は「ぜんそく」っていうらしい。

 

 

下卑。

 

下卑。

悴んだ手の温もり雲散霧消。その最中に煌めきとして紡がれる活字はダイアモンドダストと呼べたら良いのだが愚にも付かないのは確か。亀裂の入った電脳媒体を撫でる行為は些か下品ではないかとの論を私は肯定したくはない。両端の糸の切れを繋ぐ糸の役割は糸、そこに上品も下賤もないのだからそう評するのは愚である。以上。

近況。鳩を飼い始めた。そいつには実体がなく、詳しくは新宿にて汚い水溜りの水を飲んでいた名もなき鳩。放射能や工業ガスの澱などが混入した水溜りを貪るのはさながら私だった。己の淀んだ感性を貪り糧としその日の命を繋ぐ私だった。異様に感情が入ってしまった。なので彼を飼ってやることにした。脳内に彼の入るべき場所を用意してやり、それから同棲している。思考の混在化は避けて通れないのは確かだがそれ以上に私は彼と一緒になりたかった。恋ではなく哀れみの方が近いだろう。私は私の感性を守るために生きている。それはつまり私は私を守りながら生きている。ならば私と類似する鳩を飼い守るのは道理が通っているはずだ。哀れみのついでに思考の分断に合わせてツイッターのアカウントを作ってやった。彼は思考をするだろう。徐々に研ぎ澄まされたら幸いだ。彼はよく話す。私は彼の思考が好きだ。勝手にやっててくれとも思うが良いもんだ。少しの雑音は作品を昇華へと導くものだ、彼は私に良い作用を与えてくれると思う。だが与えてくれなくともよい。彼が私の隣に確かに存在することが彼から授与される最も大きな幸福だからである。鳩は良い。気紛れに鳩になり気紛れに鳩を飼い気紛れに思考を分け与え飼ってみたが、鳩は良い。その静かな狂気は猫にも犬にもない。蛇に近い。無我の持つそれは甘美だ。以上。

ここまで何文字だろうか、確か時間は10分とかかっていないはずである。しかしそんなことを気にしたら創作屋はおしまいである。自身の世界観よりも速さを重視しだしたら心が死んだも同然だ。工芸品に魂は宿るがダイソーの商品に魂は宿るか。いや、宿らないだろう。反語である。国語は嫌いだったな。私はついぞ作者の気持ちを言い当てられなかった。今なら分かる、彼らは恐らく締め切りに追われてそれのみだったのだろう。正しくは私たちが読み解いていたのは書いている時の作者の気持ちではなく作者が人生を歩む上で得た価値観だったのかもしれない。ブログは何文字がいいのだろうか。だが、十分で1000なら活字を愛し消費を愛する薄っぺらい皆様の受けは良いだろう。下卑。以上。

あんまり読まないほうが良い話。

 

 

 ブログというのは何を書いたらいいのかわからないものだ。昔からそうだ。インターネットはよく触っていたし、WEBとかも作れるし、その他も少しならわかる。つまりインターネットのことが少しはわかる。でも、ブログはどうか。私はブログに対してはなにもわからない。インターネットは少しわかる、どんな言葉が美しくて、どんな詩が良いのかもわかる、どんな絵画がいいのかもわかる、良い映画も、悪い映画も、良い人も悪い人も、クズの人生の作り方も、幸福を作るための調味料もわかる、QWERTYもわかるし、これは2バイト文字というのもわかる、小説の書き方もわかる。でもブログはわからない。私がわからないことはまだある。特に、不特定多数の人間に頼ることはよくわからない。ブログとはそういうものなのかもしれない。だとしたら私はブログには向かない。ならば私は君らに頼ろうとは思わない。これは私という罹患者のセラピー的な何かだとしたい。アウトサイダーアートのようなものだ。これは治療の一環で、ここに描き出される様々は単なる薬の幻覚に襲われた哀れな病人のたわごとだと思ってほしい。

 

 

前置きがないと話せない人間というのはあまりにも滑稽だ。

 

ではそろそろ本編にいこう。

本編というのには理由がある。この世界で真実なのは絶対的な嘘として描かれた物語のみだからだ。現実には真実と虚構が入り混じって存在していて、どれが本当でどれが嘘かわからない場合がある。まず君が見ているこの文字は本当に黒か?私はこの文字を黒だと思っているが、違う目を持っているのだから私の言う黒は君にとっては赤かもしれない。私の世界では君の見る赤が黒なのだ。つまり私の目で君がこの文章を見たら真っ赤な文字が並んでるように見えるかもしれない。これを証明できるかな。それと同じように現実には嘘と本当が入り混じっている。だが、嘘として描かれた物語は絶対に嘘である。だとしたら信じられるのは嘘だけで出来た物語の方だけじゃないか。わざわざ傷付く必要はない。嘘だらけの方が全てを疑えばいいんだから楽だろう。そう、私たちは現実ではなく物語に生きるのが一番賢いんだ。つまり物語に浸っている一瞬こそが人生の本編なのだ。

 

 

 

 

 

書きすぎた、では本編へ行こう。あ、上記の話が気になった人はクオリアで検索。

 

 

 

 

 

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20xx年、完璧なアンドロイドを作るという人類の夢は失敗に終わった。
その副産物として生まれたのが延命治療の一種であるアンドロイド化だ。
倫理の問題から生きている人をアンドロイドにするのは禁止されたが、事故死した人間をアンドロイド化するのは合法となった。
仕組みとしては機械に死んだ人の脳みそを入れるというものだ。
昔は脳細胞の急速な老化に悩まされたらしいが、今となっては元々生きるはずだった寿命分生きられるらしい。
寿命分、という変な言い方をするのは時間計算ではないからだ。
人は休息をしながら生きていくがアンドロイドには残念ながら回復機能がない。
疲労はそのまま死ぬまで持ち越されていく。
人は疲労に疲労を重ねたら息切れするが、アンドロイドはそれがずっと続いているようなものらしい。
だから生きられたはずの時間よりアンドロイドは早くに死ぬ。
長生きをしたければ電源を付けっぱなしにせずこまめに切り、あまり電源を付けないことだと企業は説明している。
この場合の長生きとは一ヶ月前後を示し、短命とは丸々八時間を示す。
パソコンよりも短命だ。
それでも遺族は嬉しいのだろうかと僕はよく考えたものだった。
死者を穢してる気分にならないのだろうかと。
そういう疑問があったからという訳ではないが、僕はアンドロイドを買った。
型番は100-i90NB。
脳みそは一週間前に死んだ彼女のものだ。

彼女の下半身は事故でなくなってしまっていたので、上半身のみが送られてきた。
顔も体型も髪型も生前を意識して作られていた。
左腰の辺りにパチンと鳴る昔ながらの電源スイッチがあった。
それをオンにすると彼女はいつも起きた時みたいに瞬きを二、三度してから僕を見つめ、安心したように微笑んで「おはよう」と言った。
身体は機械になってもその声の調子と仕草は変わっていなくて、僕は思わず電源を切った。
少しずつ電気が切れていくにつれて目が閉じ動きが止まっていく彼女の顔には微笑みが張り付いたままだった。
僕を見た時だけ見せてくれるその微笑みに僕は強い愛情を感じて何度も励まされたものだけれど、今だけは少しそれが残酷だった。

夜になるまで僕はそれを仕舞っておくことにした。
包装されてきた箱に詰め直して、棚でその箱を挟み倒れないようにして。
夜になったら、また開けようと思った。

夕飯を食べ終わって風呂に入って繋がってから、眠るまでのなんでもない時間。
僕と彼女はその時間に抱き合って他愛の無い話をするのが日課だった。
その時間が僕は一番好きだった。
あれをもう一度だけ味わいたくて、僕はこれを買った。
それ以外の時に電源を付けてしまうのは、なんだかとても勿体なかった。
なにより、今もう一度電源を付けたらもう二度と電源を切れないと思った。

 

夜になって、月が出て、僕が1日の疲れと食事の香りをお湯で流した後に、アンドロイドを隣に寝転がらせて電源を付けた。
彼女は右を下にしないと眠れないから、壁際が彼女の特等席だった。
アンドロイドも、壁際に寝転がらせた。
そのためにスイッチは左の腰にしてもらった。

古めかしいスイッチのパチンという音と共に、昼は聞こえなかった鈍くて太い起動音が聞こえる。
「おはよう。」
頭一つ小さな彼女は顔を上げて腕の中から僕の顔を見上げた。
「匂いがしないね。」
続けざまに不思議そうに呟いていた。
僕は「風邪ひいてるんじゃないの。」なんて誤魔化して鼻をつまんだ。
彼女は首を左右に揺らしながら引いて指から逃れる。
「そうかも。」
照れ笑いが含まれたその言葉と共に彼女は僕に抱き付いてきた。
「死んじゃってたら風邪もなにもないじゃない。」


それから僕らは、いつもみたいに他愛のない話をした。
彼女は死んでいて、僕だけ生きていることなんて構わずいつも通りに。
才能の話とか、努力の話とか、人との付き合い方とか。
そんな話をした。

いつもと変わらないけれど、話す度にどんどん深くなっていくこれらの話題が僕は大好きだった。
少しずつ世界が紐解かれていくみたいで、あと40年この話を続けていたらどういう結果が出るのかとうきうきしたものだった。
君はどうだったのかななんて、この期に及んでも聞けなかったのは僕の弱さだ。

二人の時間を割くように一時の消灯のアラームが鳴った。
もう何年も僕らは一時を消灯と決めて、それから先は寝ることに集中する約束を取り決めていた。それのアラームだ。
寝なくていいのに、僕は電気をベッドの横にある間接照明だけにして「おやすみ」なんて言って彼女の頬に口付けて電源を切った。
すっかりアンドロイドであろうと君がいる安心感で一週間ぶりにまともな睡眠をとった気がした。
アンドロイドの電源を切ってから先の記憶は僅かな夢と心地良い温もりしか覚えていない。
それだけ深い眠りだった。

朝起きると、君の目が開いていた。
吸い込まれそうなほど真っ黒な目で、君は僕を見ていた。
「おはよう。」
いつもの調子で、いつもの微笑みで告げられた挨拶に対して、ただ電源スイッチを探るだけの僕は何も返せなかった。

「電源ね、ちゃんと切れてたんだ。でも、付けちゃったんだ。ごめん、寝顔が見たくて。ごめんね。」

「ああ、ごめん。ごめん。」

「なんで謝るのさ。」

喋りにくそうな彼女の倒れかけたスイッチをきちんとオンにしてあげると、僕はそのまま彼女を強く抱き締めた。

シルクドゥソレイユ、キュリオス。

 

 

 

 

あのサーカス劇場は全てが観客のために用意されたものでした。舞台のあるところに入るまで、入ってからの席の配置、開始10分前のショー、始まってから終わるまで、全てがエンターテイメントでした。どきどきやわくわく、わっと驚く瞬間。その感情が全てシルクドゥソレイユの手のひらの上でした。最高の一言に尽きます。陳腐ですが今でもそれらの演目は目を閉じるとマブタの裏に蘇ります。彼らの息遣い、体の使い方、表情、声、全てに大技をやることの恐怖や死や怪我への恐怖などがなくて、全てがポジティブなもので覆われていました。最高でした。

 

ただ、一箇所だけネガティブと呼ぶのも憚れるワンシーンがあって、そこが実は一番好きだったりします。このブログも、実は彼のことを残しておきたくて書いていたりします。

さてどんなところかと言うと、サーカス団員の一人が生死に関わるような大技を決めたところです。正直その大技は動きが少なくて地味なものでした。観客の反応もトランポリンや空中ブランコに比べるとよくありませんでした。でも彼は、その大技を決めた瞬間、笑顔のまま大粒の涙とも汗とも取れない体液を頬から落としたんです。あれがキュリオスの本質だったと思います。今でもその涙の透明さを覚えています。そして、大技を決めたあと即座に観客の反応を察知して、下がり始めた足場でもっと危ないものに挑戦し、成功し、それを誰にも拍手されずに終えた彼の虚しそうな顔のことも、私は忘れないと思います。忘れることは一生ないでしょうし、私は死ぬまで彼に拍手を送り続けると思います。

ああいうものに私は弱いんですよね。ああいうのって生きてるなって感じがして好きです。人が生きる上で避けられない虚しさに直面している人を見るとどうにも愛おしくなります。

 

あ、あの演目の名前を書いていませんね。

ローラ・ボーラ

です。

恐れ知らずのパイロットは観客のために飛んでいましたよ。みなさんも覚えておいてあげてください。

 

サーカスは見ていない人に過剰に語ると劣化する代物ですので、ここまでで。

 

以上です。

 

 

 

 

トランク、懐古。

 

さて、初詣にでも行こうか。私はここで生きているから。

 

いい感じですね。本編行きましょう。これも昔に書いたものですね。

 

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2016年の、冬みたいに寒い秋が来る少し前のある日に、キャメル色の革トランクを恋人に買ってもらった。僕はその恋人に僕のより小さくて安い同じトランクを買ってやった。僕のサイズなら彼女のノートパソコンが入るからそれを買ってあげてもよかったんだけど、それを買ってあげられるほど僕は裕福ではなかったし、少し小さなトランクの方が少し背の低い彼女には合った。

「時代遅れで、品がありすぎて、普段使いは難しいかもしれないけれど、このトランクに似合う大人になりたいね。」

なんて言い合って、僕らは、同じ時にトランクのある生活を刻み始めた。

それからというもの、僕は、彼女が北の寒い土地に帰ったあとや、深い夜、そんな底知れない絶望が来る度に僕はトランクを撫でて、自分を慰めた。

その恩を返すように僕は毎晩トランクをブラシと布巾で磨いた。

どんなに研いでも、磨いても、トランクの傷は校庭の足跡とかとは違って全然消えないし、手入れに慣れてない時に出来た保湿クリームの染み、撫でるごとに付く彼女とお揃いの指輪の軌跡、自転車のカゴに入れてた時代の名残りを示す潰れた角に、しばらくトランクにベルトを付けないで使ってなかったから出来たトランクとベルトの色の違い、なんてのは消えるどころかどんどん目立っていった。それ以外にも色々な失敗がトランクに刻まれた。

自分色に染まるようで嬉しいと最初はトランクの傷を歓迎したけれど、北の地域から帰ってくるたびに輝きを増す彼女のトランクを見ると、その気持ちは薄れていった。

同じトランクを買ったはずなのに、僕が上手にやれないせいで出来る証みたいなものが彼女のトランクにはなくて、まるで彼女が上手に手入れしたところだけきちんとトランクが記憶しているみたいだった。僕のトランクには、成功なんて刻まれていなかった。

時折、羨ましくって、彼女が寝てる間とかに小さい方のトランクを手に持って姿見の前に立ったりしたけれど、僕はひょろりと長いから、やっぱり小さなトランクは似合わなかった。

時が経つにつれて、彼女のトランクは魔法みたいに美しく均等な経年変化をした。僕のとは対照的だった。

でも、僕が手入れをしなかった日はなかった。
底知れない絶望が来るたびに頼ったのは酒でも友人でもなくトランクを撫でることだった。

美しい経年変化をすることが出来なくても、傷が無数に出来ても、他の人がもっと上手にトランクを手入れしていても、どんなに自分の失敗を悔やんでも、それを捨てて視界の外に追いやるなんてことはしなかった。

でも、2085年の、彼女が斎藤の墓に収まってしまってちょうど一年の、桜の咲いた今日、僕はついに、どちらのトランクにも布巾すら滑らせることが出来なくなってしまった。僕しか住んでないこの家で、思考を文字化してくれるこのデバイスで、これを書くのが精一杯だ。身体はもう全然上手く動かせない。そろそろ僕も死んでしまうのだろうが、それは、別に構わない。僕のトランクはこのまま僕の隣で少しずつ輝きを失っても良い。ただ、彼女のトランクだけは、息子達に託しておけばよかった。彼女のトランクは、本当に美しいんだ。

 

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流れ星及び白色矮星。

 

どうも、お疲れ様です。

年が明けましたね。2017年を終え新たに2018年が参りました。私は田舎へと帰り自然と餅を堪能していました。そういえば雑煮は年に1度しか作らないためにアレンジを加えることをしないので、入ってる具やだしでその家の由来がわかるらしいですね。ちなみに私の家はお雑煮は作りません。私の家系の出自は虚無です。よろしくお願いします。実存をしていきましょう。正月は私はほぼモバイル通信のみで生きていたのでインプットをほとんどしていないので話すことはありませんね。本は読みました。三秋縋さんの『恋する寄生虫』を読みました。よかったですよ。とてもよかった。恋物語なんですが、もうあれほど二人いちゃいちゃしてろと思う小説はないですよ。

 

もうこんなもんでいいんじゃないですか。本編ですよ。これは昔に書いたやつですね。

 

ーーーーー

 

もう何光年も走っている。
確かどこかの銀河系から出発してもうずいぶん経つから、かなりの長い距離だろう。
宇宙は暗くて怖いけれど、僕らが走った場所だけ明かりが灯る。悪い気分じゃない。
だけれど、走り続けるのは中々大変だ。
もう何人もの仲間が走り続けられなくなって光を失い消えていってしまっていた。
かくいう僕も走りたい気持ちはあってもどうにも身体が追いつかない。
次は僕の番かもしれない。
ある仲間が、走り続けられないとそのまま死ぬと教えてくれた。
つまり、生まれてから死ぬまで輝き続けられるから、走れなくなっても、醜くて情けない最後はなくて、英雄的に死ねる、という。
この話は僕がまだ先頭を走ってた頃に聞いた話で、当時は聞き流していたけれど、今ではその話だけが慰めだ。

今はアンタレスの横を走っている。煌々と赤く光る彼もまた最後が近いんだろう。少し親近感が湧く。
彼の最後も英雄的なのは間違いない。
超新星爆発
まるで新たな星が生まれているように見えるから付けられた、星の最後を示す名前だ。
死んでも尚英雄的なその様は、憧れだ。生まれ変わったらアンタレスのような大きい星になりたい。
白色矮星でも構わない。贅沢は言わないから、死ぬ時は英雄的に死ぬか、美しく死にたいと思う。
僕らのように取り残されて死ぬというのは、あまりに格好がつかない。唯一、最後まで光り続けられるというのだけが救いだ。


もうそろそろ足が動かなくなってきた。周りの、同じく最後が近い仲間に別れをいっておく。
その中には、僕に僕らの死について話してくれた奴もいた。
「ねえ、あの話覚えてる?僕らの最後。」
「ん?どんな話だっけ。」
「僕らは光を失うと死ぬって話。僕らは最後まで輝き続けて死ぬんだよね。」
「ああ、うん。」
「君がその話を教えてくれたから、僕は死ぬのが怖くないよ。」
「それは、よかった。俺も思い出せてよかったよ。」
段々、走り続けるのは難しくなってきた。最後に「じゃあ、またね。」と告げて光の帯の中から離れた。

自分が発する光とは別に前に大きな光がある。僕がさっきまでいた流れ星だ。
「ああ、早いなあ。」
あっという間に彼らは離れていってしまった。
まだ近くにいるんだろうけど、彼らが何光年も遠くへと行ってしまったように感じた。
僕は少しずつ光を失って、ついに単なる宇宙塵となった。まだ命は続いていた。
すぐそこに僕らが出発した銀河があるのが見える。

何光年なんて大層な数字じゃない。僕が走ったのはほんの少しだったんだ。光の中に居たせいで全然分からなかった。
皮肉っぽい笑みが溢れるのが分かる。
気付けば流れ星はもうかなり遠く離れていた。もう見えない。
僕の身体はといえば、もう真っ黒になっていて、そんな惨めな身体を抱いて、僕は仕方ないから宇宙の流れに乗って彷徨い始めた。

「光を失っても、生きていかないといけないなんてなあ。」
独り言は誰にも届かない。


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ここにはもう誰もいない。

 

 

ブログ、ちょこちょこやってはやめて、やってはやめて、を繰り返しているので実は初めてではないです。このネットの海に多分4つ5つ僕のブログが漂流しているのでいつかこの調子で増やしていったら僕のデータを持った人形使いが現れるかもしれません。結構楽しみにしています。そうしたら僕は大人しく人形使いと1つになりますよ。そこまでの腕を持てるかはしりませんが。攻殻機動隊で思い出したんですけど、最近は絵を描く以外によく映画をみています。岩井俊二監督の『ラブレター』『スワロウテイル園子温監督の『ひそひそ星』沖田修一監督の『南極料理人マルジャン・サトラピ監督の『ハッピーボイスキラー』あと大森立嗣監督の『まほろ駅前多田便利軒』とかキューブリックが制作途中でスピルバーグ後を継いだ『A.I』とか見直したりしてます。岩井俊二監督の2作品は生きてる時にぶつかる哀しさとか生きる勇気みたいなのがひしひし伝わってきますし、『ひそひそ星』はいわゆるポストアポカリプスなSF何ですけど叙情的で叙情的SF大好きな僕としては最高でした。『ハッピーボイスキラー』はエンディングのために見る映画ですね。でもそれが最高です。主演がデッドプールとかグリーンランタンとかで有名なライアンレイノルズさんで、なんか出てくる動物の声とかやってたりしてるんでいいですよ。めちゃくちゃいいです。特にエンディングがいい。ライアンレイノルズが歌いますからね。上手いんですよ。本当おすすめです。ここに挙げたのは全部おすすめです。ぜひ見てみてください。

いい感じの量かきましたね。では本編行きましょう。

 

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シベリアからの風が夏の暑さを拭う前に、彼女は「悪者になりたいから。」と言って同棲していた部屋から出て行った。

ダンボール二箱に隙間なく物を敷き詰めている彼女の背中に向けて感情そのままの言葉を投げたけれど、恥ずかしくて書くことはできない。

結局、彼女はそのまま出て行った。僕は往生際が悪くて「いってらっしゃい。」なんて言って、彼女は苦笑いで「いってきます。」と言った。

最後の会話になったその言葉を何度も反芻していたかったけれど、玄関の扉の閉まる音が頭の中で鳴り響いていた彼女の声を掻き消してしまった。

風と共に鼻腔に流れてきた彼女の匂いがなくなってきた頃、急に一人になった実感が湧いてきて、空気が肌に張り付いてきた。遠くで二回クラクションが鳴った。

目が熱くなるのを感じながら、僕は奥歯を噛み締めて珈琲を淹れようとヤカンに水を入れた。

お湯を沸かして、カップを温めて、ドリッパーに紙を入れて、先週彼女と買った豆を誕生日にもらったミルで挽いて。

「一回お湯を注いだら20秒待つといいんだよ。」「それからはお湯を途切らせないようにね。」彼女との会話が頭に浮かぶ

彼女は確かうんうんと聞いていたけれど、一度も僕の教えた通りにやっていなかった。でも彼女の淹れる珈琲は美味かった。不思議だった。

砂糖は、お互いに2.5本。まず5本取って、二本ずつお互いのカップに入れて、最後の一本は半分こしていた。

初めはなんだか甘過ぎる感じがあったんだけれど、今ではすっかり2.5本がちょうどよくなっていた。

これから先彼女の帰ってこない部屋で僕は彼女のことを少しずつ忘れていくだろうけれど、これだけは忘れられそうにない。

半分だけ使われた砂糖の口を捻っていると目から涙が出てきた。半分になった砂糖を握りしめて、珈琲を片手に居間に向かった。

「どうせ生きていても仕方がないからこの部屋に火でも付けようかな」言葉が漏れた。タバコに火を付けたあとだった。吸い終わってから決めようと思った。

 

 

 

  私

 

高校の時に私から告白した恋人と今でも一緒にいる。今年で5年目だと彼は言っていたけれど、私はそういうのを覚えないから変な感じだった。

「5年あったらハムスターも死ぬね。」私は言葉に困ってお茶を濁した。彼は苦笑いで答えてた。この5年でわかったのは彼がそういうジョークが嫌いということくらい。

あと、珈琲が好きってこと。小さい頃からお茶より珈琲の家庭で、その影響だって言ってた。

タバコもそうらしいけれど、彼はタバコが好きで吸ってるんじゃなくて、格好つけとストレス発散半々で吸ってる感じだった。

彼が幸せそうにタバコを吸ってるところを見たことがない。でもそれは私もそうかもしれない。幸せそうにタバコを吸う人はいないのかもしれない。

いるんだとしたら刑期を終えてすぐの元囚人くらいなんじゃないかと思う。それも多分5分かそこら。

何十億人って人がいて、その人たち全員がタバコを吸うなら多分膨大な時間をタバコが持ってることになる。

でもその中で本当の幸せとしてタバコに時間が費やされるのはごく僅かだと思うと変な感じだ。

そういえばこの5年もそうだ。本当に幸せだったのは告白を受け取ってもらったその一瞬だけで、そのあとは私から告白した責任感で付き合ってるようなものだった。

彼の物静かで、なんだか周りと良い意味で浮いてて、頭が良くて、器用で、優しくて、なんでも受け入れてくれそうな包容感に惚れた。

付き合ってみると、静かで一人なつまらない人だった。包容感は、包まれにいかないと感じられないもので、私はそういうのが苦手だったから意味はなかった。

彼が仕事に慣れてきたから来年あたり結婚しようか、という話が出た時私は少し怖くなって、返事を待ってもらった。

普通に考えたら、その業界の大手に就職した人のお嫁さんになって養ってもらうというのはいいことかもしれない。

でも、私は今彼のことを愛しているとは言い切れないし、今付き合ってるのは単なる責任感。結婚したらもっとこれが重くなっていく。それに耐えられる自信がなかった。

それから、一人でバーとかに行くようになった。彼には「一人で考えたいから。」とか言って。

バーに行くと誰かが必ず奢ってくれた、声を掛けてきた男性に付いていくなんてことはなかったけれど、携帯に登録されている連絡先は着実に増えていっていた。

そんなこんなで、彼に返事を待ってもらってから一月後私は彼の元を去った。「悪者になりたいから」とかなんとか言って。確かにこの言葉は本心だった。

出て行く準備はすぐ済んだ。二箱しかダンボールが家になかったから。それに持っていきたいものだけ詰めている時、離られる嬉しさを感じた。

でも、玄関を出る時に真っ赤な顔と目で「いってらっしゃい。」といわれた時は心がぐらついた。

また帰ってきて淡々とした毎日をもう一回送りたいと思った。あの生活が終わりだと思うと寂しくなった。「おかえり。」を言って欲しくなった。

私はそれでも涙を我慢して「いってきます。」って言った。私が出て行くのは彼と過ごせないと思ったからだから。

玄関の扉が大げさな音を立てて閉まるともう家の匂いも彼の匂いもしなくて、余計に寂しくなった。シャツを鼻に押し当てて懐かしい匂いを嗅いだ。

もうそろそろ寒くなるんだろうなって思わせてくれる気持ちの良い風に吹かれながら私は知り合いの車に乗って、いつも行く近場のバーに向かった。

 

 

 

  僕

 

彼女と別れてから半年近く経っていた。ついさっき、半年近くテーブルの上に置いてあった半分だけ使った砂糖を捨てた。

なんでそこにあるのかはよく覚えていない。それほど忙しかった。家には風呂と寝るために帰ってくる程度だった。

その忙しさを象徴するように、仕事が忙しくなってからは珈琲は基本ブラックだ。甘いと眠くなっていけない。自販機に売ってる泥水みたいなブラックをよく飲んでいる。

それと半年前から変わったことというと、酒を飲むようになった。会社に入ると飲み会があって、まあ当たり前に僕は飲んだ。

ウィスキーが好きで、今では飲み会じゃなくても一人で飲むようになった。タバコの銘柄もブラックデビルからメビウスに変わった。

最近は忙しい方の仕事にも慣れてきて、今日ようやく早い時間に帰ってこれたから近くのバーに行こうと思う。

名前は黒蜥蜴。江戸川乱歩が好きな僕としては行かざるをえない。多分内装は黒が基調になっていて大人の雰囲気があるんだろう。

先輩に「黒蜥蜴ってバーが近くにあって、僕江戸川乱歩とか好きだから通おうと思ってるんです。」と聞いたら「行かなきゃわからないよ。」と返された。確かにそうだ。

だが僕はすでにこの黒蜥蜴に親近感を抱いていて、他のところに行こうとは思わない。誓いみたいなもので、僕は家から行くバーは黒蜥蜴だけと決めた。

そろそろ8時だ。タバコを1本吸ったら黒蜥蜴に向かおうと思う。

 

 

 

 

  私

 

 

あれから半年が経った。悪者になれたかと聞かれたら、なれたと思う。5年間、彼氏がいるからってことで味わえなかった青春を取り返している気分だ。

彼氏はこの半年で3人くらい出来て、別れたし、彼らの影響でタバコの銘柄がころころ変わったり、映画の趣味がころころ変わったりして、他人事みたいだけど面白かった。

今は新しい彼氏と付き合っていて、彼が劇団の座長をしているから私も演劇をやってる。彼は私の顔と演技の根っこっていうのが好きらしくて、来年初めて舞台に立つ。

彼が私のために書いた脚本の主人公を私が演じる。半年前までは考えられなかったことで、あの家から出てきてよかったと思っている。

昼は彼の劇団の持ってるスタジオで練習したり、話し合ったりする。これからの演技とか劇だけじゃなくて映画批評とか美術の世界の話とか。

私は映画だと蜷川親子が好きで、絵画だとモネが好き。あの人が私の顔を見て「モネの日傘を差す女に似てる。」と言ってから好き。

夜はあの人と劇団の人たち何人かと一緒に私たちが出会ったバーによく行く。私がわがままを言って毎回連れてきてもらう。

二人目の彼氏が「良い名前だよな。炭焼きにされた蜥蜴みてえでよ。」って言ってからはずっとここが好きで、気に入ってるから。

そのバーっていうのは私が家を抜け出して夜遊びをするようになった頃からよく行ってた近場のバーで、そういう意味でも思い出深かったりする。

今もそのバーにいる。7時に練習が終わって、それからここに来て少し経つから多分8時過ぎくらい。くらいっていうのは、このバーに時計がないから。

店主が変わった人で、時間を聞いたり自分の時計を見たりすると「推理小説は残りページを気にしちゃダメなんだよ。」っていちいち言ってくる。でもそこが好き。

そのせいかわからないけれど、ここには面白い人が集まる。あの人は座長だし、時々有名なミュージシャンとか、アーティストが来る。普通の人も話を聞くと面白い。

私は結構人の話を聞くのが好きで、よく面白そうな人がいたり座るのに飽きたりすると席を離れて話しかけたりする。あの人は良い顔しないけど気にしない。悪者だから。

ちょうど今バーの扉のノブが捻られた。古い金属の甲高い音が鳴って、次に入店を知らせる鈴が鳴って黒い頭が見える。会社員かな。