斎藤は耽けた。

日常で思いついた話とか、日記のようなもの。

下卑。

 

下卑。

悴んだ手の温もり雲散霧消。その最中に煌めきとして紡がれる活字はダイアモンドダストと呼べたら良いのだが愚にも付かないのは確か。亀裂の入った電脳媒体を撫でる行為は些か下品ではないかとの論を私は肯定したくはない。両端の糸の切れを繋ぐ糸の役割は糸、そこに上品も下賤もないのだからそう評するのは愚である。以上。

近況。鳩を飼い始めた。そいつには実体がなく、詳しくは新宿にて汚い水溜りの水を飲んでいた名もなき鳩。放射能や工業ガスの澱などが混入した水溜りを貪るのはさながら私だった。己の淀んだ感性を貪り糧としその日の命を繋ぐ私だった。異様に感情が入ってしまった。なので彼を飼ってやることにした。脳内に彼の入るべき場所を用意してやり、それから同棲している。思考の混在化は避けて通れないのは確かだがそれ以上に私は彼と一緒になりたかった。恋ではなく哀れみの方が近いだろう。私は私の感性を守るために生きている。それはつまり私は私を守りながら生きている。ならば私と類似する鳩を飼い守るのは道理が通っているはずだ。哀れみのついでに思考の分断に合わせてツイッターのアカウントを作ってやった。彼は思考をするだろう。徐々に研ぎ澄まされたら幸いだ。彼はよく話す。私は彼の思考が好きだ。勝手にやっててくれとも思うが良いもんだ。少しの雑音は作品を昇華へと導くものだ、彼は私に良い作用を与えてくれると思う。だが与えてくれなくともよい。彼が私の隣に確かに存在することが彼から授与される最も大きな幸福だからである。鳩は良い。気紛れに鳩になり気紛れに鳩を飼い気紛れに思考を分け与え飼ってみたが、鳩は良い。その静かな狂気は猫にも犬にもない。蛇に近い。無我の持つそれは甘美だ。以上。

ここまで何文字だろうか、確か時間は10分とかかっていないはずである。しかしそんなことを気にしたら創作屋はおしまいである。自身の世界観よりも速さを重視しだしたら心が死んだも同然だ。工芸品に魂は宿るがダイソーの商品に魂は宿るか。いや、宿らないだろう。反語である。国語は嫌いだったな。私はついぞ作者の気持ちを言い当てられなかった。今なら分かる、彼らは恐らく締め切りに追われてそれのみだったのだろう。正しくは私たちが読み解いていたのは書いている時の作者の気持ちではなく作者が人生を歩む上で得た価値観だったのかもしれない。ブログは何文字がいいのだろうか。だが、十分で1000なら活字を愛し消費を愛する薄っぺらい皆様の受けは良いだろう。下卑。以上。